高校生の頃のはなし2

ちなみにスライスの高校生活は、授業中では、ファッション画の落書きをし、家では中学生の頃からマイブームだったスイーツデコを制作したり、アクセサリー作りに没頭してそれなりに制作ライフをエンジョイしていました。

ときめき!  スイーツデコのアクセサリー

ときめき! スイーツデコのアクセサリー

さて、コンテストも、期末試験も終わり、ついに2年の夏休みが始まりました。
デザイン画描きまくるぞ〜!と思っていたのですが、あんまり筆が進まず。。。
その頃、服には興味があったのですが、なんで人間の形に添わせなきゃいけないんだ??まぁ、確かに服は機能性あってこそ、人間を包み込む形であり、造形する制限が大きいなと思い始めていました。服飾の歴史やムーブメントなどの資料を図書館で読み漁り、確かに、布地以外の木でできた服や金属を使った服なんかもありました。ドレスの形は時代とともに変容していき、それはそれでとても面白いなと思いましたが、今この現代でその服を作ってもランウェイでのコレクションに過ぎず、その服たちは実際私たちの生活の場面では、着られていないんじゃないか?コレクションはアートに、でも実際に売られ着られている服はアートではなく機能性重視なこと、その違いに違和感を抱きました。私は、服ではなく、生活の中にあるアートのようなデザインをしたいのではないか?と考えるようになりました。
そこで、ファッション以外のデザインについて調べることにしました。
すると、プロダクトデザインという存在を始めて知りました。生活の中にあるコスメからバッグ、電化製品、車、家具など様々なモノをデザインする分野です。私は、これだ!!!!と強く思いました。すぐにプロダクトデザインを勉強できる専門学校がヒットし、どうやら授業内容にはデッサンがあるとか。。
デッサンといえば、美術の先生だ!と夏休みが終わって早速美術の先生に相談しに行きました。
すると、「プロダクトをするなら、専門学校より美大に進学するのをお勧めするよ。」
美大!?!?
美大って油絵とかそーゆーのだけじゃないの!?!?
と最初は驚きました。
そこで、美術予備校の存在を知り、体験入学へ。

ここからが、私の美大受験の始まりでした。

両親に、「大学ならどこに行っても文句は言わないって約束したよね?!」と強気で説得し、2年の秋の終わる頃美術予備校に通うことになりました。

でも、国公立しかダメだよ!お金ないからね!と親に言われ、国公立受験をすることに。
受験は、国語なんかの筆記3科目とデッサン、平面、立体の3科目、トータル6科目の試験があります。
今まで適当に勉強してれば、まぁ、それなりの点数は取れたし、ちょっと必死になりゃ大丈夫っしょ!と楽観視していた私がダメでした。

大学は2校とも落ち、私は見事浪人決定となったのでした。。。
浪人はダメと言われていたので、専門学校に行かせる!と言われていたのですが、今のデッサン能力があるのに専門学校で一から学び始める人たちといると本当に辛いし、美大に行ったほうが将来性があると、予備校の先生とタッグを組んで、親を説得し、一浪だけなら、と許しを得たのでした。

美大デビュー

美大デビュー


高校生の頃のはなし1

ぶっとおしで書き続けますよ〜!

中学生2年でファッションデザイナーになろうと決意し、中学生3年生になったころ、高校選びが始まりました。私は、服飾科のある高校に行きたくて、オーキャンに行ったりして、気分を高めていました。


ところがどっこい。

両親に「高校は、服飾科に行きたい!」と言うと、断固反対。「高校までは、普通科に行って、高校生になってもまだ服飾がしたいなら、大学か専門学校に行きなさい。」と言われました。
私は嫌すぎて、それならせめて制服可愛い高校に!と、受けた普通ぐらいのレベルの私立高校の特進科に特待生で合格し、そのノリで県立高校の推薦も受けたら、受かってしまってしまったのです。県立の推薦は絶対で、死ぬほどダサイ制服の高校に行かなくてはいけないハメになってしまいました。
それにしても、高校受験がイージーモードすぎて、調子ぶっこいてたことが、ことあとの大学受験に失敗する要因にもなっていた気がします。。。

まぁ、その話はあとにして。

この県立高校、文化祭も本当クソみたいな感じで、物販禁止、飲食禁止という本当にありえないぐらいしょぼすぎるものでした。ちなみに何するの?と聞かれたら、クラス毎の出し物で、例えばピタゴラスイッチをしたり、お化け屋敷(めっちゃしょぼい)、クラスで撮ったクソ身内ネタのダサイ映画上映をしたりといった感じでもうほんとになくてもいいぐらいしょぼいものでした。
唯一盛り上がるのは体育館ステージである有志バンドやダンスなどでした。そのステージで、家庭科クラブ委員会主催のリサイクルファッションショーなるものがありました。高校1年の頃に先輩たちが行っていたのは、ゴミとして捨てられた服をそのまま着て、適当にステージを歩いているという意味のないものでした。
服飾科を目指していたスライスは、これだ!と思い、文化祭が終わると同時に、家庭科クラブ委員会の顧問である家庭科の先生、通称ノブ子のところに駆け込みました。

「あのファッションショー、来年私にやらせてください!!!!!」

ノブ子は快く了承してくれました。ちなみにノブ子は結構な変わり者で基本的に職員室には居らず、家庭科準備室にこもりっぱなしの情緒不安定な女の先生でした。私が3年生になるころには、他の職員からいじめがあったとかなかったとかで、不登校になったというちょっと浮いた存在の先生でした。
話は逸れましたが、そんなこんなで2年生になる前に私は委員長になりました。(ちなみに今思い返すと、小学生の頃も園芸委員長やってたり、中学生の頃も区の委員長をやっていて、昔のジャイアンが活きた地味な委員長ばっかりをやっていました笑)

1年後のショーまでにやることはたくさんありました。一緒に服を作ってくれる人を募集するポスターを描いたり、捨てられるはずだった服を学生たちに呼びかけて集めたり、どんな服にするかデザインを考えたり、ショーの仕方、司会内容を考え練習したり、、
もちろん、学業もちゃんとやるし、部活には行くしで、文武両道どころか、三道だよばかやろう!。。。この頃から多忙好きは変わってないんだなぁと思います。

ちょっとESに書けそうな堅い話になってしまいました。

まぁ、そんな感じでファッションショーは無事上手くいきました。
この後、家庭科クラブの全国大会(家庭科クラブは、高校生が家庭科なんかの科目を通して、地球環境とかについて考え、どう活動したのかなどをプレゼンする全国大会があるのです。結構すごい。。)に連れて行ってもらったり、サスティナブルをデザインにどう取り入れるべきなのか?ということを考え始めたきっかけにもなりました。

5月にあったショーが終わって束の間、高校2年の夏が始まる頃、福岡県内にある服飾専門学校の高校生コンテストがあることを知り、応募してみることに。
自分でコーディネートした服を写真に撮り、コンセプトを描いた書類が一次審査通過。二次審査は、専門学校の文化祭でその服を着てランウェイを歩くというものでした。

高校の文化祭のショーで司会もしたし、これはいけるっしょ!と上がり症の自分に言い聞かせ、いざランウェイに立ったものの。。。
高校でのそれとは、全くの別物でした。ライトは強烈に眩しいし、ハイテンポなリズムの音楽が緊張する私の心臓の音をより強調させ、ファッションに興味ある自分より年上の大人や専門学生が観客として私の方を見ており、ランウェイの先ではシャッターの音が鳴り響いていました。私の足は震え、緊張で汗は止まらず、きっと顔も強張っていたでしょう。ここがどこなのか私は今一体何をしているのかわからなくなり、頭は真っ白になって、そこには恐怖しかありませんでした。

案の定、二次審査は落選。

でも、専門学校に来たら、みんなファッションのことが大好きで真剣に勉強ができると思うと落選したのなんてどうでもよくなり、早くこんなクソ高校出て、楽しい夢の世界であるファッションの世界に飛び込みたいなと強く思ったのでした。そして、もう2度とランウェイだけは歩きたくない、作った服はモデルさんに来てもらおう。。。と思ったのでした。



中学生の頃のはなし

大学4年の4月。就活のシーズンです。

私は都内の美術大学生です。
就活はしませんが、留学しようと思っています。
そのためのポートフォリオを今作っています。
でもなんでデザイナーを目指して、大学生活であんなことやこんなことをしてきたのか、ポートフォリオに全部書ききれないので、こちらのブログにて書かせてもらおうと決意した次第です。いまやらないともう一生やらないと思い立ったが吉日。なぜなら、私はめんどくさがりだからです。今から朝まで書こうと思います。

というわけで、いきなりですが、デザイナーを目指した話を書きます。



私は、福岡県のとある町に生まれ、3人兄弟の長女、近所に住む子供たちの中でも最年長だったので、下2人の弟と近所の子たちを束ね、従わせていた、いわゆるリーダータイプ、いや、盛りすぎた、ジャイアンな男勝りの女の子でした。

UDF きれいなジャイアン(ノンスケール PVC製塗装済み完成品)

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そんな私も小学5年生になり、友人の女の子が「お前、〇〇のこと好きなんだろー!」と男の子に嫌がらせされてることが増えてきました。当時流行していたプロフィール帳には、「〇〇君のことが好きなんだけどヒミツね!」なんて書かれてあったりと、周りは性の目覚めのお年頃。恋愛に興味津々。

ミラクルかける!プロフ帳&手紙デコ文字マスター

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でも、当時私は太っていて(今もそうだけど笑)、デブやらブタやらそういったからかいを受けていました。そりゃ私だって年頃の女の子だから、結構傷つきましたが、お母さんのご飯が美味しいわ、ストレスでお菓子は食べまくるわ(今でもストレス溜まるとお菓子をバカ食いする癖がある。。)まったく痩せられず、それでまたデブだよ。。とナイーブになり、ストレスになり、またバカ食いして。。の負のループに陥り、見事ここまでブクブクに太ってしまいました。。(苦笑)
でも、私だって女の子だし、おしゃれしたいのよ!と、洋服は(しまむらとかでしか買ってもらえなかったけど)それなりに気を使っていたり、お母さんが裁縫してピアノの発表会ではドレスを作ってくれたりしてて、割とおしゃれ女子だった方だと思います。(田舎だから、しまむらでもおしゃれ女子になれたのです。。)
また、休日はお母さんと一緒にぬいぐるみを作ったりと、ミシンは小学生のころから使っていました。
ぬいぐるみ作りは本当に楽しくて、もう少し上手になったら、お母さんみたいに洋服を作れるようになりたいなぁと思っていました。

そんなこんなで、日々が過ぎ、私も中学生になりました。中学生になると、毎日制服を着なければいけません。私は正直、制服が嫌いでした。毎日同じ服、みんなと同じ服。。全然面白くない。
しかも、制服だと、友達との差が出にくくて、顔とか体型で判断されがちです。どんなに普段おしゃれでも、制服を着なければいけない学校という監獄は私には苦痛でしょうがありませんでした。

けれども、相変わらずデブな私でも、お出かけなんかするときに着る洋服は、毎日違う気持ちにさせてくれるし、ハッピーな気持ちにしてくれるし、もしかして私と同じような太ってたり、体型に自信がない女の子がいるかも!そんな子たちに、私みたいに洋服でハッピーになれることを知ってほしいなぁ、そうだ!私、洋服のデザイナーさんになりたい!
と、中学2年の頃に読んだ矢沢あいさんのご近所物語もきっかけとなり、ファッションデザイナーになろうと、決意した中学生時代でした。